わたしはなぜここに存在するのか? (1/3) - 哲学 - 教えて!goo
わたしはなぜここに存在するのか? (1/3) - 哲学 - 教えて!goo
>なぜわたしは今ここにいるのですか?
解りません。
>なぜ生まれてきたのですか?
解りません。
>なぜ過去にも今も多分未来にも存在し続けるのですか?
生まれる前とかに存続していたのかも、死んでから以後存続し続けるのかも解りませんし、 すでに書きましたようになぜ今存続しているのかの謎もわかりません。
>なぜ生きているのですか?
解りにくい設問なのですが、存在と「生きている」ということを別に考えていらっしゃいますか? 存在ということでしたら、すでに書いたとおりですし、 なぜ生物なんだろう?ということも なぜ生物としての連綿として命の連鎖の中に「わたし」はいるのだろう?ということも まったく解りません。
>存在しなくなった場合はどう� �るのですか?
この質問の意味も解りづらいのですが、 もし私が存在しなくなったら、私は存在しなくなるのだろうと思います。 物質とか他の人の意識とかはそれにまったく影響されずに存在してると思いますが、 これじゃあ答えになってませんよね。
結局 すべて解らないのですが、
哲学するということは、ものごとを深く広く総合的に考えるということでもあり、かつ厳密、綿密に、より明晰性を求めての思索という感じのものと思いますが、 上記の質問には、そのような哲学を真剣に考える人ほど答えは出てこないこととも思います。
でも解らなくても、私はこの60年間生きてきて、この存在が あまりにもすばらしい、あまりにも奥の深い存在であることなら知っています。
もしその全部を書� ��としたら、何百冊という本でも書ききれないのじゃないかと思うほどの量となってしまうと思います。
どのように私は彼が好きな彼に言うのですか?その中で、この疑問と関わるような設問と答えとかを いくつも持っていますので、 重要と思われることをいくつか書いてみます。
何かぴたっと感じるものがあればいいなと思います。
(1)まず、「わたしはなぜ」あるいは「なぜわたしは」の「私」とは何かということですが、
この私は 千葉県の銚子からすこ外れた飯岡というところで生まれたうまれながらのチョウシッパズレですが、とよく人に自己紹介しますが、 そこでとれた私が、「でもチョウシッパズレではないです。」と自己紹介したとしても 私は私、同じにんげんです。 その私とはという点についてなのですが、
20歳ごろのことでしょうか、 3歳以前 に習志野というところに両親とともに住んでいたらしいのですが、 そのころ親しかったという近所のおばさんから、其の頃の私の事を聞いたことがあります。
「あれ、 あんたが あの~ちゃんなの? まったく変わっちゃって!、いやおもしろい子供だったのよ。おぼえてないでしょ。 私の娘(そのおばさんの子供)と友達でね。よく遊びにきたんだけど、 私の娘にチュウしてあげるから あがっていいですか?とか言ってほんとに手にキスをして入ってきたのよ。 何度もね。 」 ええええええ^^。
ま まるで わたしと別人じゃないですか(^^);。
つまり 今107kaさんが使っている「わたし」も、わたしがここで使ってる「わたし」も、 それは自己記憶体という記憶意識としてのまと� �りをもった意識存在であるわけで、 たとえそれが自分であったとしても それ以外の自分を人から聞いても「わたし」とは別なひと、あるいは「べつな坊や」として感じてしまう存在ということになるわけです。
方法divorse効果の子供たちはいますか?(2)しかしながら、私は3歳の頃 肺炎で死にそうになっていて、ペニシリンがなんとか海外から空輸されてそれがぎりぎり間に合って命をとりとめたそうなのですが、 また写真を見ると、太っていて健康そうでまるでそれ以後と以前とでは別人ですが、 両親がそのぐらいのことで見まちがうわけはないので、私は その時にそっと病院とかで取り替えられた人物などではなく(^^)、ちゃんと私の母から生まれた同一人物であることも解ります。
意識体としての私と、意識外であっても私である私との両方の共通項は、その時何なのかと考えたときの答えが、 私にとって大きな価値の一つとなる宝物でした。
答えは、両方ともに、 た� ��えほん少ししか生きられなかったとしても、存続し得なかったとしても、 未来永劫、過去幾百億年、しかも宇宙のはて何億光年さがしても他にはひとりもいない、 ほかにさがしようのないかけがえのない命である点です。
あなたのいう「わたし」も わたしの言っている「わたし」もです。
同性愛者が結婚することができるはず理由(3)にもかかわらずわたしは頑丈な体の持ち主でもありました。 あるいじめにあうまえまではです。 大人からの差別のともなういじめ、これによって私は こんどこそ徹底して心身衰弱していきました。 ちょうどこれから生きられるとものごころついた頃、 わたしは、ふたたび重い肺炎でなんども死に掛かっています。 息苦しいなんてものじゃないのです。 息がはげしい痛みをともないますし、ともかくそれどころじゃないです。 そんな中で、 あるとき、右の肺胞は全部つぶれ、左の肺胞もあとわずかとなったときに、私は 医者が後3日の命です。覚悟してくださいというのをはっきりと聞いてしまったのです。 これからこそ生� ��られると思っていたのにという 絶望は 苦しみを増幅させています。 でも私はまだ意識がありました。 もう耐えることなんかとっくにできなくなったままです。
でも そんな中で まずすごい存在となったのは なんと「自転車」でした。 これだけですと意味解らないと思いますので説明します。
私は きゅうに自転車に乗りたくなったのです。 自転車にのって 町を村を山を野原を 風の中 雨の中を、森の緑の中を、小川のそばを、その草いきれのなかを、木々から砂にこぼれるゆれる光の中を、 木々の風の音の中を、海辺を 丘を 丘からながめる雲を 青空を夕焼けを 一番星を、自転車をこいでこいで、はしらせてはしらせて、どこまでも、世界中を旅していきたかった。 いやだ いやだ 死にた くない。 死にたくないんだ。 たった自転車がその時命ほどもの重みとなった理由です。
が、三日後はとうとう訪れました。 でも その時病気は峠を越え、ふたたび、ぎりぎりでわたしは助かっています。
>なぜわたしは今ここにいるのですか?
>なぜ生まれてきたのですか?
>なぜ過去にも今も多分未来にも存在し続けるのですか?
>なぜ生きているのですか?
ぜんぶ 私には解りません。 でも 60歳の「わたし」という記憶体には、 107kaさん、 あの時夢見た「自転車」の重みより 以上のはるかにたくさんのそして豊かですばらしい記憶が たくさんの宝物としてありますよ。
いっしょうけんめい 生きてないときにはなにもありませんでしたけどね。 でも、いっしょうけんめい人間的に生きようとしたときに、 わたしは今もワーキングプアですが、 本にも書ききれない宝の山を見つけてきましたよ。
書ききれないですけど、音楽もその一つです。お金では変えないたからものがその時には山ほどあるということです。 この存在にはです。
なぜかはわかりません。 でももし、若い人達が 同じ宝を見つけてくれるのな� ��ば、わたしは、もういつ消えてなくなったっていいです。
私自身はね。 なぜ存在してしまったのかわからない以上、其の力でふたたび「わたし」は存在するかもしれません。 未来永劫に? でもそこで最後に大事なのは、いつも新鮮な心でいられるかです。 そしたら、 いついなくなったってやがていいと思えるようにもなりますし、未来永劫に生きる魂も、見つかりますよ。 何故?というそのような宇宙にぽっかり穴の開いたような謎は たぶん、その時だけ 誰の心から解けてゆくとおもいます。
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